いづ藤のよみものbook

名古屋城再建といづ藤漬物舗-前編-

[いづ藤の歴史]

『尾張名古屋は城で持つ』

という言葉を皆様はご存じでしょうか?

この言葉は、江戸時代の伊勢の国から全国に広まった“伊勢音頭”という民謡の一節にあり、「尾張の名古屋は名古屋城のおかげで保つ、繁盛する」という意味で、広く認知されていました。

それほどまでに、名古屋城というものは名古屋の人にとって心のより処となっていたお城でした。

実は、その名古屋城の再建に、私どもいづ藤も深い関わりを持っていたのです。

 

今回のよみものは、そんな名古屋城の再建にまつわるお話を深堀りしてご紹介いたします。

 

1、名古屋城の歴史

名古屋城は慶長20年(1615年)に、徳川家康によって築城されたお城です。

特に高度な技術が必要とされる天守台石垣には、土木の神様として名高い、加藤清正が指揮を執る等、歴史的価値のある石垣となりました。

▲加藤清正像。

そして、石垣だけではなく、城の頂には黄金の鯱、史上最大級の延床面積を待つ天守閣、絢爛豪華な本丸御殿等、鉄壁といわれる要塞としての機能を備えた名古屋城は、1930年に城郭として国宝第一号に指定された名城でした。

名古屋城のふもとの浄心にいづ藤はあり、秋政の息子二代目鑛一は、よく連れられて名古屋城に行ったそうです。

そんな名古屋の誇りというべき名古屋城に、戦争による悲劇が待ち構えていました。

 

 

2、B29がもたらした悲劇

1945年、太平洋戦争真っ只中。

名古屋城も空襲に備え、城内の屏風や所蔵品などを、安全な場所に移し替える作業が始まっていました。

そのような時期の5月14日朝、空襲警報が鳴り響き、B29の1 時間にもおよぶ焼夷弾の爆撃で、名古屋は火の海になりました。

空襲の当初の目標は名古屋市北西部で、国宝である名古屋城は目標から外されていました。

しかし、当日の天候と空襲による火災の煙で視界不良になり、爆撃の最後の焼夷弾が、名古屋城に誤って投下され、不運にも金シャチ避難用足場に引っ掛かり、天守閣炎上に繋がったと言われています。

その結果、天守、本丸御殿などの主要な建造物は焼け落ち、石垣だけが残る無残な姿になってしまったのでした。

この空襲で、名古屋城のふもとにあったいづ藤も、店は消失してしまいますが、秋政と鑛一はこの戦争を生き延び、戦後現在の所在地の栄に店を構える事となります。

▲戦後再建したいづ藤。

そして、戦争で職人の殆どを失い、空襲で焼失廃業したいづ藤の本家「いづみや」の味を守る事に翻弄すると同時に、名古屋城再建という、名古屋人の誇りというべき活動を行うのです。

 

3、動き出した名古屋城再建

戦後、様々な復興を全国民が一丸となって進める中、市民の中で名古屋城再建を願う声も高まってきました。

そんな市民からの要請を受け、1955年(昭和30年)、名古屋市は名古屋城再建準備委員会を立ち上げ、費用を試算しましたが、1億円足りないという結果になり、名古屋城再建は取りやめの決定がされました。

そんな状況を知った秋政を中心とする7名の発起人達が、「なら俺たちで何とかその1億円を捻出してやる!」と手を挙げ、『いっこく会』を創設し、賛同者を募り、総勢約25名にもなる大規模な活動に繋げるのでした。

▲三代目当主、伊藤秋政。

当時のメンバーには、うなぎの「いば昇」、熱帯植物の「花長」、お菓子の「菊饅頭本店穂本店」、うなぎの「西本」、呉服の「松下屋」、お茶の「妙香園」、とんかつの「矢場とん」など、現在も続く名店も名を連ねていました。

▲当時の新聞のコピー。ピンクのマーカーは今も現存する店。

この『いっこく会』の“いっこく”とは、「一刻も早く名古屋城を再建しよう」とする想いと、「意志をまげない頑固者」という意味をかけてあり、当時のメンバーの「絶対に再建を実現するぞ!」という熱い想いが込められていました。

同時に、この一歩がとても困難な壁である事もこの名前自体が物語っており、父親の秋政の挑戦を聞いた二代目鑛一も当時を振り返り、「とても無理だと思った」と語っているほどです。

 

次回、このいっこく会がどのように資金を集めて、名古屋城天守閣再建の一歩を築き上げたのかというストーリーをご紹介します。

今回ご紹介した、名古屋城の歴史や、戦争の悲劇、そして秋政をはじめとする商店街の方達の熱い想いを感じながら、次回の読みものをお楽しみください。

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